沈黙 遠藤周作

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

日本でキリスト教が禁制になって久しい「島原の乱」の収束後が舞台。カトリック教会の修道会で、かつて日本に宣教したフランシスコ・ザビエルも所属していたイエズス会の若い司祭セバスチャン・ロドリゴは、自分の師でもある神学者クリストヴァン・フィレイラが、禁教令の下で布教中に捕縛され、棄教したという知らせを聞き仲間の司祭2名と日本に渡る。
苦難の末に日本に渡ってロドリゴ司祭がみたものは、キリスト教に対する過酷な弾圧と、それでも信仰を捨てず殉教してゆく信者たち、そしてそれに対して沈黙を続ける神。

やがて自らも密告され捕えられて、棄教したフィレイラに会う事になる。

棄教を誓っているのにロドリゴが棄教しないために拷問され続ける信者達の呻き声を聞きながら、自ら信仰を貫くか、棄教することによって信者達をを救うか、つらい選択を強いられたロドリゴは、フィレイラに諭され棄教し踏み絵をすることを受け入れる。

遠藤周作が史実に基づいて書いた歴史小説「沈黙」を既に3回ほど読んだ。
カトリックにおける信仰と、その意味を問う主題を持つこの小説は、世界で13カ国語に翻訳され、カトリック教徒でもあるイギリスの小説家グレアム・グリーンは、「遠藤は20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である」とまで言っている。

主人公であるロドリゴ司祭達が、日本で最初に辿り着き潜伏したこの小説の最初の舞台は「ヨモギ村」といい現在の長崎市外海町黒崎あたりらしい。
ここには現在、遠藤周作文学館がある。また近隣にも、禁教の解けた明治時代から地元に尽くしたマルコ・ド・ロ神父ゆかりの出津教会がある。

仕事でも良く通るココはとても景色がきれいなところで、ここから見る夕日はほかのどこよりも美しい。
出津教会の横にある歴史民俗資料館の前は海を望む高台になっておりヨモギ村の山小屋に潜伏したロドリゴ司祭達が見た海もこんな景色だったのだろう。
そこには「沈黙の碑」というのがあり

「人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧いのです 遠藤周作

とある。

なにしろネットでちょっと調べても未だにいろんな論争を呼んでいるこの小説だが、カトリック信者や関係者を中心にネガティブな感想を持つ人が少なくないようだ。
当時の聖職者や信者へ加えられた壮絶な弾圧や拷問を考えるに、肉体的な苦しみを信仰心が超えるか否か・・みたいな考え方が当てはまるかどうかなんだが遠藤周作氏がこの小説でロドリゴ司祭の中のキリストとして書いているとおり神やキリストを自分の中で認識する事で信仰は続くのであり、それそのものがキリスト本来の教え、ひいては宗教の目指す精神性でないかと思う。

先日11月24日に1600年代に禁教令で殉教した「ペトロ岐部と187人の列福式」が、ここ長崎で行われた。過去に長崎で殉教し既に列聖した26聖人をはじめ今回の列福した人々、そしてその他にもたくさんの信者が殉教したきた。

確かに禁教令下の信者は信仰に厚く気高かったと思うしそれはある意味、宗教的には理想的なのかもしれないが、そうならざる得ない時代背景や環境もあった事も考えるべきであると思う。過酷で無慈悲な生活環境の中で何代も貧しい生活をしてきた無学で単一の宗教を強いられるという事実上無宗教のような風土で、愛に彩られ死後の永遠に続く幸福を詠う宗教は非常に魅力的だし盲目的な信仰を生み出すであろう。
また、精神性を重んじるのでなくモノを拝み尊むタイプの信仰に陥りやすい日本人は、「絵踏みをする=信仰を棄てる」という考え方が容易く成立し、家族や同じ信者達との連帯上、そのためには死をもいとわないということになりやすいのではないだろうか。

棄教したという立場を表面上とった元信者が、カトリック教会の中で褒められる事はまずないのだけど、信仰の強さやその認識はそれぞれであるはずだし、棄教しいくらかの生を長らえた人の方が、苦しまなかったとは言えない。そして同じく神やキリストを認識しなかったとは言えないのである。

司祭セバスチャン・ロドリゴの実在のモデルはジュゼッペ・キャラ司祭で、棄教後に岡本三右衛門の名を与えられ仏門に帰依し、海外から渡来した絵画などの鑑定を行っていたそうだが、同居の下男・下女と密かに礼拝を行ったいたほか、キリスト教の教義を「宗門之書物」という書物に書いたりして、八十八歳で没するまで四十余年間監禁されたのち江戸小石川で生涯を終えている。

沈黙 SILENCE [DVD]

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随分前に見たけど映画の沈黙はフィレイラの役が丹波哲郎だったような・・。