池島の思い出・・。

コメントを嵐の様に書き込んでいる「outlet-italy.net」の「とみーさん」が地元の写真が見たいというので今回はそういうネタにしよう。
昨年までの3年間、仕事で長崎県外海町(現在は長崎市に合併)の池島へ、教育委員会の主催するパソコン講習会の為に通った。通うといっても半年毎に2週間程度行くといった感じなのだが夜の授業があるために帰りの船がなく、その期間泊り込みになるのだ。
始めの2年はコーディネーターのような立場で僕自身が滞在はしなかったのだが、最後の2回は状況上止むを得ず僕が行くことになった。
この池島は長崎の西彼杵半島角力灘にあり周囲4キロ面積0.9平方キロの本当に小さな島であるが、平成13年までは九州で最後まで残った炭鉱があり最盛期では1万人弱の人口であったと言われる。

講習会のコーディネーターとしてはじめてここ池島を訪れたのが閉山となった平成13年11月で、新たな就職に役立てようと僅か12時間の講習会を他の開催地では考えられないほどの熱気と緊張感の中で行ったのが記憶に残っている。

僕が講師として滞在したのは平成16年、つまり外海町長崎市に合併される前の最後の年で、島の人口は300名程度ではなかっただろうか。当事業ももう終わりだという事がわかっていたし、かつて日本の高度成長期を支えた石炭産業の、全国においても最後の砦となった池島を記憶に留めるチャンスももうあろうはずも無いので、講習がオフの時間を利用して探検と称して散策することにした。
(正確に最後は北海道大平洋炭礦であり池島の後に操業が終わっている)

去年の末の時点で僕が確認した営業している商業施設は1箇所のスーパー(1日数時間だけ営業)と1箇所の雑貨店、そして食堂なんかが数件といったところで、公営のものも2箇所の浴場に町立診療所、幼稚園、小中学校といった感じである。
その殆どが廃墟となった集合住宅や、かつては子供の笑い声が絶えなかったであろう公園も雑草に覆われ昼間だというのに物音すらしなくひっそりと静まりかえっている。
学校裏から草を掻き分けて山に登ると、この島でもっとも標高の高いところと思われる場所に神社があり島を一望することが出来る。確か池島神社(ウロ覚え・・)という名前だった思うが厳しい立地の風雨に耐えるためかコンクリート製のステージ(神楽殿かな?)のような作りでかつては踊りや神楽が奉納されていたのかもしれない。

さて、多くの生活感を残して人だけが居なくなったこの池島に、僕は何故か強いノスタルジーを感じてしまった。もちろん炭鉱の町にも離島にも住んだことが無いから変な話なのだけど、こんな狭い土地にいくつもの高層住宅を含む集合住宅がひしめき、巨大な学校に関係者用のゴルフコースはじめ数々の娯楽施設など、それらの痕跡はあまりにもリアルで栄華を極めた高度成長期の中の池島を彷彿とさせる、或いはそう思わせるだけのかつての住民の思いもこの町に残っているのだろうか。

中高生の頃、僕は自分を取り巻く環境が永遠に変わらないかのような錯覚を感じ無思考であったように感じる。社会に出ていくらかの年月を経て同じということは無いのだろうけど、その本質は僕に限らず多くの人がそうでは無いかと感じる。
祇園精舎の鐘の音・・」ではないが変化に柔軟に対応できる思考と行動力が無いと人であれ企業であれ国家であれ滅びるのだろうけどね・・・。
池島の立派に舗装された滅多に車の通らない大通りを歩きながらそんなことを感じた。

っていうか今回はオチガナ━━(゜∀゜)━━━イ!!!
まあたまには深刻に終わろう、僕も平均余命の折り返し地点過ぎた年齢だし・・・。

写真は池島に沈む夕日(外海町から撮影)